赤く白く、ひらひらと。
ルークの前を歩む二人を追って、それらは尾のようにたなびいている。

赤はクレスのバンダナの色だ。
同じ色の外套よりは控えめに、明るい金の髪の合間から伸びて、その端は傷だらけの白い鎧の上で彼の歩に合わせてひらひら揺れる。

白はロイドの襟元から、膝裏近くまでの丈があった。
釦の多い特徴的な衣服の、飾りのようなものなのだろうか。
クレスの落ち着いた足取りよりも幾分軽い歩みに合わせ、やはりひらひらと揺れている。



凄まじい光の奔流に呑まれて、元いた場所から彼らと共に飛ばされてしばし。
辿り着いたのは、どうやらザレッホ火山とは別の火山であったようだ。
熱地獄を抜けて目前に広がったのは見覚えのない草原で、遠くには白く高く聳える塔が見えた。

エルドラントから見知らぬ荒地に飛ばされた時にも、山の峰よりも更なる高み、奇妙な光の陣が浮かぶ天を衝くようにして見えた塔だ。
ロイド曰く、彼の知る建造物によく似ているものの、周囲の様子はまったく異なっているらしい。
クレスにも覚えはないらしく、結局その塔を目印に火山を離れて探索を始めた。

いずことも知れぬ土地。
足元を忙しない歩調で懸命についてくるミュウ以外、見知った顔はどこにもない。
それなのに狼狽えずいられるのは、クレスとロイドがいるからだ。
仲間の姿がないのは彼らとて同じなのに、二人は不安や怯えなどおくびにも出さない。
大勢の人間が集まっていたあの場所では、彼らより年嵩の者の姿も見られたが、きっとこの二人こそがリーダーなのだろうと直感していた。

(なんだろ、空気が違うっつーか。
 いいなあ……俺もなんかひらひらしたの巻いてみよっかな)

二対のひらひらを眺めつつ、自身の額や襟元を想像の中でなぞってみる。
そーゆーもんでもねーか。
思い描いてみるもあまりに似合わなかったので、ルークはへ、とやさぐれ気味に嘆息した。
足元のチーグルが「みゅ?」とこちらを仰いで小首を傾げた。



『なんだよ、もう友達だろ?』



(……へへ)

赤く白く、ひらひらと尾を泳がせる二人が、火山でくれた言葉を思い出す。
姿態から英雄然として凛々しいクレス。
意思の強い瞳とはきはきとした物言いに憧憬を抱いたロイド。

そんな二人が『友達』だと言ってくれた。
面映いような、こそばゆいような、胸を弾ませる感覚に頬が緩む。

「―――のかい?」

「……あ、え?
 ご、ごめんクレス、聞ーてなかった」

「おいおい、歩きながら寝んなよールーク」

不意の問いかけの響きと共に、赤いひらひらが視界を外れる。
クレスが振り向いたのだと気付いて、ルークは慌ててひらひらを追っていた視線を上げた。
焦りは露骨に顔に出てしまっていたらしく、ロイドが赤い服の肩越しに豪快に笑ってみせる。
その隣ではクレスもまた、気を悪くした風もなく褐色の瞳を細めていた。

へへ、と気恥ずかしさに頭を掻いたルークへ、問いは穏やかな声にのせて繰り返された。



「それで、ルークが弟なのかい?」

「―――え?」

それは、言葉としては知っている、けれど慣れない響きの単語で。
口をついて出てしまったのは、ひどく中途半端な声だった。



「あ、ごめん。 逆だった?」

「うわっマジかよ、あっちが弟なのか!
 兄貴は大変そうだなあ、ルーク」

どくん、どくん、と。
途端しまったとばかりにクレスが示した謝意と、驚きを露にしたロイドの苦笑に。
わずかずつだが確実に、鼓動が速くなっていくのがわかった。

慣れない響きの単語だった。
なのに、それが自分と誰との関係を客観視して使われている言葉なのかが、はっきりとわかる。
そしてそれを明確に認識するほど、



『―――どき共をなんとかしておくれよ!!』

耳の奥、強くなっていく残響がある。



「……っあ、あのさ、」

口を切る。
顔を上げる。
青い明るい空の下、振り向いた二人の顔が視界に入る。
一秒を十秒にも百秒にも感じる。
流れる時間がひどく重い。

「お、俺……」

友達と言って笑ってくれた、二対の瞳に映し込まれる。
ひらいた口が強張っていく。



残像と残響が二人に重なり、喉が、思考が萎縮する。



「―――そ、そうなんだよ!
 あいついっつもあんなだから大変でさー、俺なんか何べん屑って罵られたかわっかんねーもん!」

喉を抉って血を吐くような心境とは裏腹な、繕える限りの明るい笑顔が絞り出した声は、醜かった。
感情を伴わない表情を無理矢理に強いたせいか、頬と口角と目尻と胸が痛い。

「あ、やっぱ?
 ルークにゃ悪いけど、あいつ口悪りぃし態度もでっかいよな!」

「だっろ、思ったろ!
 でもナタリアにだけは形無しなんだなーこれが」

「ナタリアって、弓を持ってたあの金髪の女の子…だったよね?」

「そ。 クレスも見ててみー。
 二人揃ってるとこ見りゃ、もー力関係が一目りょーぜんだから」

声は吃らせずに明るく、笑顔は引きつらせず鮮やかに。
再び同じ問いが繰り返されぬよう、関心のベクトルを逸らしていく。

もしももう一度問われれば、今度こそ嘘をついてしまうだろう。







友達なのに言えない。
友達だから言えない。
問いに否と答えたなら、新たに問われてしまうからだ。

じゃあ、おまえは『何』、って。



























         −ワンセルフ、アズユアフレンド。−


























▽ ▽ ▽

赤く白く、ひらひらと、まぶたの裏でふたりが笑う。
ふたりが笑ってくれる度、ずくり、ずくりと心臓が軋む。




(―――あー…だめだ)

辛抱強く閉じてみても一向に眠りへといざなってくれない薄情な瞼を持ち上げて、ルークは浅い嘆息を天井へと吐いた。
やわらかい毛布を除けて上体を起こすと、寝台の上質なスプリングが緩やかに沈む。

部屋の奥の窓へ視線をやると、夜空は仄青い光を灯していた。
月明かりに等しく控えめなそれは、空に浮かんだ奇妙な陣の光だ。
ジェイドが言うには、彼の知る如何なる譜陣とも異なるらしい。
夜も褪せない淡い光は、ここが別世界であることを実感させる。

窓の木枠に四角く切り取られた景色は高く、雪山が夜に白く描く稜線が低い。
ここが、一連の騒動ののちに休息をと望むと精霊が示してくれた建物、その上階にあたるからだ。
建物の一階は、従業員の姿はなかったがカジノの設備を備えていて、二階より上は宿泊施設となっていた。
窓から望む雪景色も相俟って、ケテルブルクに酷似した印象がある。
けれど雪山の向こうには、ケテルブルクのホテルからは決して見えなかった白い塔があった。

昼間、クレスとロイドと共に、見知らぬ土地を進む導とした塔だ。

(……くそっ。
 朝にはもうさよならしなきゃなんねぇのに、こんなんじゃ―――)

こんなんじゃ、別れのあいさつも笑って言えない。
ぐしゃりと髪を乱してのち、ルークは部屋の中を見回した。
皮肉にも長いこと寝付けずにいたおかげで、闇に夜目を阻まれることもない。

真っ先に、寝台の傍の壁に立てかけてあった剣が目に入った。
しかし、すぐにかぶりを振って断念する。
予期せぬ別行動に加え、立て続けに起きた不測の事態、あまつさえ精霊などというおとぎ話の中の存在との連戦だ。
特に女性陣の疲労は激しく、それはクレスやロイドの同行者達とて同様の様子だった。

常ならば深夜というにはまだ早い時間帯だが、皆がとうに眠りに就いているだろう。
彼らの安眠を妨げるわけにはいかないし、だからと言って陽も落ちた刻限に単身外へ出るなど論外だ。

と、なれば。

(台所はあるんだもんな。
 ―――よし。)

行く先を定めたルークはひとつ頷くと、毛布の足元側に毛布とは異なる水色の毛色を確かめた。
大きな耳を器用に丸めて身体を包み、譜の刻まれたリングを傍らに、ミュウが寝息を立てている。
起こしてしまわないようにそろそろと毛布から両足を抜き、床の靴の上へと右から順に下ろした。
靴のかかとを潰したままで寝台の上から腰を浮かせ、



「どちらへおいでですか、ルーク坊ちゃま?」

「っい!?」

薄闇の中からかけられた声の唐突さに、膝を折られて尻餅をついた。



体重をかけられた寝台が軋み、憎らしいほど優秀なスプリングが反動で伸び上がってミュウも跳ねた。
水色の毛玉は数センチほど宙に浮き、再びもふんと毛布に沈む。

『しまったミュウを起こしたか』と、『しまったヤツを起こしていたか』。
どちらに先に意識を向けるべき状況なのかと動揺のあまり一瞬固まり、それからゆるゆると後ろを向いた。
肩越しに見やれば、隣の寝台の上で、声の主が身を起こしている。
窓から差し込む淡い青色の光に細い金の髪の一筋一筋が透けるように映えてきれいだとか、そういった感慨を覚えている状況ではないことに、たっぷり3秒は耽ってから気が付いた。
まだ些か動揺しているらしい。

ガイ、と口をついた名もほとんど音にはならなかった。
細心の注意を払っていたつもりだったのに、それでも気付いて目を覚ますとはどれだけ繊細な神経の持ち主なのか。

「え、あー……あ、どちらってーかホラ、ここ調理場あんのに今日『まだ』だろ?
 明日はそんなヒマねーだろーし、ちょっと行ってこーかな、なーんて」

「今から?
 今日くらいムリしないで休んだっていいんじゃないか?
 おまえだって疲れてるだろうに」

「ん、ま…な。」

首を傾げながらのガイの反応はもっともだ。
だが彼の言うように義務感が動機であるわけではなく、むしろ目的はしっかりと休息を取るために不可欠な『気分転換』を図る所にこそある。
とはいえ不用意にそこを強調すれば、なぜ気分転換が必要なのかという点や、更にはいつから気分転換の手段にするほどその『義務』に対して熱心になったのかという理由まで、ずるずると芋づる式に説明を余儀なくされるのは目に見えている。
どちらも出来れば避けておきたい。


返答が曖昧になった自覚があれば、視線も自然とガイから逃げる。
今日ははぐらかしてばかりだ。
そう思うと、昼間の心臓の軋みが思い出される気がした。


「……なるほど。 じゃ、俺も。」

「へ?」

ばさりと、外した視界の外に厚い布の翻る音を聞く。
思わず見やれば、毛布を剥ぐって寝台を下りたガイが、ブーツに足を通していた。
彼は両のつま先を二度ずつ、毛足の豊かな絨毯の上で鳴らすと、壁に掛かっている上着の方へと足を向ける。
その行動の示唆するものを察し、ルークはようやく身を乗り出した。

「っておいガイ、今日はおまえいいって。 疲れてんだろ、寝てろよ」

「昼間いろいろあったからなぁ、目ぇ冴えちまって寝付けなかったんだ。
 おまえもそんなトコだろ?」

「あ、……うん、まあ―――」

「みゅうぅ〜……」

放って寄越された上着が膝にかかる。
頷いても嘘にはならないだろうか。
言葉に迷って視線を泳がせていると、泳いだ視線の先で薄闇の中蠢いた輪郭があった。

水色の山がもぞもぞと盛り上がったかと思えば、右にぴょこん、左にぴょこんと、丸くなって身体を包んでいたチーグルの耳が飛び出す。
ミュウ、とその名を口にした主人の声に反応して、水色のチーグルは目をしょぼしょぼとさせながら顔を上げた。

「ご主人さま、おでかけですの〜……?」

「悪りぃミュウ、起こしちまったな。
 ちっと出てくるだけだから寝てていーぞ」

ルークは上着を小脇に抱えて立ち上がり、ミュウの小さな頭を撫ぜた。
だが触り心地の良い毛並みは、その手を拒んで押し返す。
眠たげな目つきのまま、主人の手のひらをかいくぐるようにして、ソーサラーリングをさながら浮き輪のように押しつつ毛布の海の上を泳ぎ進んだミュウは、

「だめですの、ボクも、いっしょに行くで…すのっ!?」

「げっ!」

寝台の端で踏み外し、ソーサラーリングと諸共に真っ逆さまに転がり落ちた。

「おいおい、大丈夫かミュウ」

「ばっかこのブタザルっ、平気か?」

歩み寄ってガイが、その傍らでルークが、床に顔から突っ伏したチーグルの姿を覗き込む。
板張りや石造りの床の上でなくて幸いだったとはいえ、衝撃はそれなりに響いたらしい。
ミュウは小さな頭を不安定に揺らしながら、短い手足でふらふらと起き上がった。

「みゅうぅぅ………目はすごく覚めたですの」

ぱちりと大きく開いた瞳で、しかし耳を憐れっぽく垂れさせたミュウに、ルークとガイは目を見合わせて苦笑した。


















宿の調理場が借りられる時には、なるべく一品料理を作る。
そんな決まりを定めてふざけ半分に一品ルールと名付けてから、いつの間にかもう随分と経つ。

正直未だに料理は面倒だと思うし、ナイフでちまちまと野菜の皮を剥いていくより、思い切り剣を振り回している方が数十倍も楽しい。
腹に入れば同じだろうに、やれ食べやすい大きさに刻めだの、やれ煮崩れしないように角を落とせだの。
ガイもティア達も小言の尽きることがない。
結局うまくいって褒められるよりも、失敗して顔をしかめられる方が格段に多いのが現状だ。

クレスやロイドも旅の暮らしのようだったが、彼らは剣だけでなくナイフも達者だったりするのだろうか。
ごつごつと小憎たらしい形をしたこのイモなども、鮮やかな手つきで事も無げに、するすると剥いてしまったりするのだろうか。

想像の中で二人が笑う。
二人分の笑顔に引きずられ、昼間の出来事まで思い出しそうになる。
胃の絞まる感覚を振り払うように、ルークはぶん、とかぶりを振った。

「ぅみゅっ!?」

「あっ、悪りぃミュウ」

悲鳴と共にがし、と頭にしがみつかれて、頭上のチーグルの存在を思い出す。
身ごと厚く皮を剥かれて歪になったイモを置いて、ルークはずり落ちかけたその身体を支えた。

「気を付けろよーミュウ、鍋の中に落ちたらあっという間に茹で上がっちまうぜ」

冗談混じりに言いながら、食器棚に背を預けていたガイが手を伸べてくる。
かぶりを振ったのが髪が邪魔だったためだと思ったのか、その長い指はルークの瞼に掛かっていた赤い前髪をさらと脇へ除けた。
そうして離れ際、ミュウの頭を撫ぜていく。
ほんの一瞬増した重みは、ミュウごと自分の頭まで撫ぜられたかのようで、ルークは久々の感覚に頬が緩むのを堪えながら、再びイモを手に取って刃をあてた。

「しかしまあ、アニスたちの言ってた通り本当にちゃんとした調理場だな。
 台所っていうより厨房だ」

大小様々の食器が詰まった棚に背中を預け直して、ガイがぐるりに視線を巡らす。
声は驚嘆を通り越して、ある種の呆れさえ含んで聞こえた。

背の高い棚の数々に、見渡すほど広い調理スペース。
パンを焼くのに用いるのだろう特大の竃まで据えられている。
公爵家であるファブレ邸の厨房にも、これほどまでの設備はなかった。

カジノの上階にあったのはダイニングルームというよりは食堂で、洒落た内装にずらりと並ぶ瀟洒なクロスのかけられたテーブルといい、まるでケテルブルクホテルのレストランだ。
だが、壁や天井で煌々と輝く照明は、音機関によるものでも譜石によるものでもないらしい。
手元にあるのが見知った調理用具でも、目の前の光景とそれを構成する原理との矛盾を意識すると、やはり多少の居心地の悪さは否めなかった。

「料理道具の種類がまずスッゲーしな。
 ナイフだけで何種類だよ。
 あのでっけーナイフとか、あれもう剣と変わんねーじゃん。 熊でも解体するわけか?」

「食材も山のようにあったな。 熊はなかったが」

「ボクの大好きなキノコもたくさんあったですの!」

頭上のチーグルはひたすら呑気に嬉しそうだが、状況を考えれば不気味な話だ。
日が暮れる頃にこの施設に辿り着いたが、一日を通してクレスやロイド達以外に人と出会うことはなかった。
アニスを始めとした数人が食事を用意している間に、残りの人間で施設内をくまなく見て回ったものの、従業員の姿を見たという報せもゼロだった。

だというのに、手元には切れ味優れた研ぎ立てのようなナイフ。
人参や玉葱といった野菜を今もくつくつと煮込んでいる小さな柄付きの鍋は、磨き上げられて鏡のような光沢を放っている。
調理場のみに限らずとも施設の中の隅から隅まで、埃など塵ほども見られない。
新鮮な食材の山といい、これが元の世界オールドラントならティアが泡を吹きそうな怪談話だ。

「ケセドニアでも見たこと無ぇよーなモンも混じってたけど、その辺はクレスたちの世界の食材ってことなんだろうな」

「あの精霊たちの話からすれば、多分な。
 至れり尽くせりなのは、もしかしたら彼らなりの礼のつもりなのかね?」

「きっとそうですの!
 今日はご主人さまもガイさんたちも、すごくすごく頑張ってたですの!」

ガイが、至れり尽くせりだったのが『食材』と『調理用具』であって『料理』ではなかったことを暗に皮肉って肩を竦めると、純粋なのか鈍いのか、ミュウは声も高らかに見当違いの賛辞を贈る。
目をまるくしたガイが「ミュウもお疲れさま」と鷹揚に笑って労い返したのを聞きながら、ルークは手元の刃を進めていた。

交わされる声に耳を傾け、手元の作業をのろのろと進める。
けれどそれらの傍らでいつしか、意識は別の方を向いていた。

(……ほんとに『頑張ってた』かな、俺。
 みんなは……クレスもロイドも、一生懸命戦ってたのに、
 ……俺、いつまた『兄弟』のこと訊かれるかって、どっかで考えてなかったか……?)

ぐ、とあばらの奥で心臓が不意に重くなる感覚。
泥でも積もったかのように、鼓動が鈍く澱んでいく。

そこから意識を逸らそうとして、眉間と手元に、無意識の力がこもった時だった。


「―――っわち!」

「みゅ!?」

「あ、やったな」


体温に馴染んでぬるくなったイモの表面を滑り、剥きかけの皮を破ったナイフが、イモを掴んでいた右手の親指を削いだ。
研ぎ立てナイフの優れた切れ味は食材のみを対象に発揮されるものではなかったらしく、瞬く間にじわりと赤い筋が浮かび上がる。

「ごっご主人さまご主人さまっ!? 大変ですの痛いですの!? お医者さん呼ぶですの!?」

「だーもーうっぜーな、髪ひっぱんな髪ッ」

頭上でおそらく体色以上に青くなっているのだろうチーグルをたしなめ、ルークは血の付く前にとナイフとイモを調理台の上に下ろした。
切れ味の鋭さに比例して血の滲み方もかなり速く、肉の内側から無数の針でつつかれているかのような、刃物の傷特有の痛みは割とこたえる。

だがそれで尚冷静にしていられるのも、痛みよりも行き場の無い苛立ちが先に立つのも。



「ケガの内に入んねーっての、こんなんツバ付けときゃ―――」

そんな対処は許さんとばかりに、ガシ、と。
口に運びかけた手をしかと掴んで、持参済みの治療用具をもう一方の手に。

有無を言わせずにっこりと、ガイが笑うのを知っているからだ。



「………。」

ルークがめいっぱいの辟易をたたえて半眼になるも、ガイの無言の笑顔が揺らぐことはない。
それは抗議をぶつけた所で、または延々と睨み合いを続けた所で、決して崩れることのない鉄壁だ。

これも癪に障ることながら、両手の指を数えて足らない程度には、同じ状況に陥った経験がある。
故にその鉄壁の頑強さを重々承知しているルークは、嘆息を落とすと早々に折れた。
察したガイが、掴んでいたこちらの手を離し、旅装の内である治療用具一式のまとめられたポーチを開きに掛かる。

ルークが調理場に行くといえば、それは即ち件のルールを実行するということだ。
既にそれは暗黙の了解だが、ガイが毎度毎度決まり事のように『治療用具を持参して』ついてくるのが腹立たしい。
音機関狂いのガイが、たとえ部屋で音機関を愛でる貴重な時間のさなかにあっても、それを中断して同行するのだ。
一体どれだけそそっかしいと思われているのか。

(ムカツクからとりこしぐろーにしてやろーって、しばらくはケガ0で来れてたんだけどな……あーくそっ、油断したッ)

「あんまり不細工なツラしてると、そっちにも包帯巻いちまうぞ」

血を拭き取り、消毒薬を染み込ませたガーゼをあて、その上から薄手の細い包帯をくるくると指に巻きつけていき、更には頭上でうっとうしいほど主人の安否を案じているチーグルに穏やかな笑顔で応えつつ、口ではしかめつらを揶揄混じりに諌める。
手際の良さがまた腹立たしく、ルークは仏頂面のままで目を逸らしてやった。
視界の隅でガイが苦笑したのが見える。

「生き血入りのスープじゃ誰も喜びゃしないんだから、手当てくらい我慢しなさい。」

「……ジェイドが喜ぶかもじゃん」

「怖いこと言うなシャレにならん」

「ガイさんガイさん、お顔がかたいですの」

鬼畜眼鏡の名をぼそりと出せば、何故かノンアクセントノンブレスの拒否反応が返ってくる。
こちらの世界に飛ばされた直後、ガイは鬼畜眼鏡や守銭奴少女と行動を共にしていたらしいが、また何か新たなトラウマでも刻み付けられたのだろうか。

ミュウがきょとんと言った『お顔』のように途端に硬く強張った手つきを見かねて、ルークは他所を向くと、ふう、と浅く嘆息した。
余った左手で後頭部を掻きつつ、ふと思いついた口調を心掛けて口を開く。

「……そーぉだな。
 あのジェイドなら、生き血どころか聖獣のチーグルだって喜んで食っちまいそーだもんな。」

「みゅ!?」

少々白々しい調子になったが、やはり純粋にして鈍いのだろう、頭上の聖獣は狙い通りのリアクションを示した。
対してガイはその狙いを的確に察してくれたようで、ほんの少し情けなさそうに眉尻を下げるも、口の端では確かに笑む。

「―――チーグルか、なるほどな。
 そういえば頬なんか特にやわらかそうだし……」

「耳なんかも割といけんじゃね?
 あ、毛色で味が違ったりもすんのかな〜」

「みゅっ!? みゅみゅみゅみゅうぅ!
 だめですの、ボクは全然おいしくないですのー!」

ガイは手当てを続けつつ、ルークはそれに任せつつ。
空惚けた底意地の悪い応酬を交わし、ミュウが必死に首を振って抗議するその下で、二人は密かに目配せし合った。
火の上でくつくつと控えめに煮立ち、内部では刻まれた野菜を踊らせる小さな鍋を、互いに目顔で示し合う。
そうして声にはせず、首の浅い上下のみでタイミングを合わせて、

「―――チーグルスープ。」

「みゅうううううう!!」

ぼそりと声を重ねれば、頭の上でミュウが震え上がったのがわかった。
その身体はみるみる縮こまって、上目遣いに見上げると耳の先まで震えている。
どこまでも予想を裏切らない怯えぶりに、ルークはガイと顔を見合わせると、たまらず吹き出して笑声を上げた。

「はっは!
 ばっか、じょーだんだって、じょーっだん!」

震える小さなまるい頭をやんわりとはたいて宥めてやる。
みゅうう、とか細い声が半べそで実に頼り無げに降ってきたので、「誰も食やしねーって」と告げながら、今度は少し強めにその頭を撫でつけてやった。
ルークはやれやれと笑ってのち、視線を頭上のチーグルから正面に立つ青年へと移行させる。

ガイもまた口元を手で覆い、目を細めてくつくつと笑っていた。
ミュウの怯え様に罪悪感を覚えたのか、幾分申し訳無さそうにしているものの堪え切れていない。
彼はこちらの視線に気付くと、余韻に肩を震わせながらも、ふ、と微笑いかけてきた。

「いやいや、ちょっとばかし取り乱したよな。 悪かった悪かった。
 それで、そっちのケガの具合は?」

きゅ、と包帯の端が結わえられる。
問いかけは処置を終えるのと同時で、包帯の下の傷を指しては聞こえなかった。
その唐突さと不可解さに反応が遅れ、瞬いている内に「みゅ?」と先んじて疑問符が降ってくる。

「ご主人さま、ほかにもケガしてたですの?」

「あ?
 いや、別にどこも切っちゃいねーけど……」

両の手を返し、肘や二の腕の外側まで覗き込んでみるも、あるものといえばいつ負ったかも覚えていない古い傷の痕くらいなものだ。
具合を案じられるほど新しいものはどこにも見当たらない。
するとガイはすいと伸べてきた右の拳で、こちらの胸の中央をトンと叩いた。



「ここのケガ。」

服の下の、胸の奥。
幾対もの骨が象る、白い囲いの向こうの心臓。

それより更に深いところにある、心の。



薄く笑みをたたえているが、その面差しは揶揄もなく真摯だ。
昔から変わることのない無自覚に飾り立てられた言い回しに、ルークはへ、と皮肉を込めて片方の口の端を持ち上げてやった。

持ち上げながら、思い描いた憎たらしい笑顔を、作り損ねたことを自覚していた。

「……そのいちいちキザっちい性格、なんとかなんねーの? 超寒みぃ。」

「こいつは失礼。
 それじゃ、お詫びにあったまるか?」

恐らく随分と情けない顔を晒してしまっているのだろうに、ガイは動じず、おどけた態度も崩さなかった。
その両腕は目の前に広げられ、彼が何を言わんとしているのかがわかる。
人の話を聞いちゃいねえ。
ルークは苦笑いに遠慮なく呆れの色を込めてやったが、対するガイの優しく呼ぶような笑顔は揺るがなかった。

ゆると、進める足は半歩もいらない。
頭の重みに任せて俯けば、額がことんとガイの首元に収まり、その上から「みゅ?」とミュウの不思議そうな声が聞こえた。
平素ならばそこにある筈のチョーカーの感触がないことに気付き、在り処を探って記憶を手繰れば寝室のナイトテーブルに行き着く。

目が冴えて寝つけなかったと、あの部屋で彼は言ったけれど。

「……この嘘吐き。」

「うん? 何か言わなかったか、ルーク」

「いーえー。」

「ふーん?
 で、ご気分の方はいかがで?」

「めためた恥っじーよ、ったりめーだろ。
 ………けど、」

「けど?」

甘えているとわかっている。
こんな姿を誰かに見られでもしたら、顔から出た火で全身大火傷だ。
そう思うから、呆れて突き放してくれないだろうかと悪態をついてやっているのに、視界の外から降ってくる声は変わらずどこまでも甘かった。
腹が立つほど穏やかに頭上で微笑んでいるのだろうことが、両肩の上に置かれた腕のあたたかい重さでよくわかる。

「ルーク」

耳元で促すささやきさえ甘い。
ふう、と諦めを込めてため息を落とせば、肩の力も共に抜けた。
降参めいた心境で、すり、と預けた額をすり寄せてみれば、じかに感じる体温が胸の底の泥を軽くしていくのを感じる。

「―――ん。
 恥ずいけど気持ちいい、かな」

甘えている。
その事実を吐露するに思ったほどの抵抗は感じられず、安らぎを得始めた心地の中でぼんやりとそれを不思議に思った。


友達だと笑って言ってくれた、それはクレスとロイドだけではない。
はじめにそう言ってくれたのはガイだ。

なのにガイには、無様なくらいに情けない姿をこうして見せるのが怖くない。


「………すり寄られんのは予想外っつうか、言い回しが少々誤解を招くというか………」

どうしてだろう、と思考を巡らせかけた所で、ふと頭の上から声が落ちてくる。
ぶつぶつと零すようなそれは聞き取り難かったが、ミュウの声でないことは、その低さと額に感じる骨の震えから確かだった。
響きはどこか不満げで、心なしうろたえ気味にも聞こえ、ルークはおずおずと視線だけで源を仰ぐ。

「ガ…ガイ、俺いま何かまずかった?」

「ああいやいやいやいや。
 ほらミュウ、ミュウもぎゅーってしてやれって。
 ご主人さまは寒いんだってさ」

「みゅ、寒いですの? はいですの!」

「ぅおぶっ」

かなり不自然に目を逸らされ、相当無理矢理に話を逸らされ、結果はぐらかされた気がしたのだが、追及する前に頭上のチーグルにしがみつかれた。
頭に覆い被さるような抱擁は額の側に重みを掛け、首ががくんと前へ折れる。
ガイの肩に鼻頭をぶつければ、ミュウも反動で前後に揺られた。
いつもの高い声で危なっかしい悲鳴が上がり、けれどその短い両のかいなは、役目を果たさんと力を緩めない。
ぎゅう、と全身で懸命にあたためられているのを感じて、ルークはぶつけた鼻頭をさすりながら、ふ、と吹き出した。

「はは」

無意識に声にして笑うと、頭の上からもふ、と微笑む吐息の漏れたのが聞こえた。
次いで、ほんの一瞬増した頭上の重み。
ガイの手がミュウの頭を撫ぜたのだと、確かめずとも既知感が教えてくれる。

「聞いた方が軽くなりそうなことか?」

「んー……や、余計情けなくなりそーだからいーや」

答えながら、もう十分情けないか、と口の端を歪めて苦笑した。
いつまでもびくびくおどおどと、特にロイドには決して見せられたものではない。
また『後ろ向き』と評されたくはなかった。



クレス。
ロイド。
屋敷の外では生まれて初めて、自分のことを『友達』だと言ってくれた人たち。

何の隔たりもなく向けられる笑顔がレプリカの目には眩しくて、それが目の前で曇ったらと思うと震えるほどに怖かった。
彼らはレプリカという存在を知らない。
レプリカという存在を知った彼らが、その時何を思うかわからない。

もしも嫌悪の眼差しを向けられたらと思うと、たまらなくなる。
そうして、そうやって怯える臆病な自分に、悩めば悩むほど嫌気が差した。



「あーあ、なんかもーマジでいっぺんスープにでもなって、頭ん中どろっどろに溶かしちまいてー……」

両手で髪を掻き乱したくなったがミュウの存在を思い出し、持ち上げた手で俯いた顔を覆った。
ため息が手と手の間から漏れる。
これでもかとばかりに煮詰まっているくせ硬く強張ったままの頭には、鍋の中を軽やかに踊る野菜を見習えとさえ思った。

ミュウがチーグルスープなら、さしずめ。
胸の底の泥の孕んだ自嘲が、笑みを暗く歪めた時だった。



「じゃあ『ご主人さまスープ』ですのv」



ぺしん、と左肩の辺りをはたかれる感覚。
ほぼ同時に左の耳へとダイレクトに飛び込んできた能天気な声に、ルークは顔を覆った手の下で目をまるくした。
俯いたままそっと覆いを外して、視線のみで左を窺う。
すると視界に入ってきたのは――否、視界を埋めたのは、頭上から覗き込んできたミュウの上下逆さまの顔だった。

はじめその顔はにこにこと、何が楽しいのか笑っていた。
だが間もなく何かがおかしいと思ったらしく、小さな眉が小さいなりに歪む。
やがてそれは歪んだままに硬直し、足先から頭のてっぺんへ、青い毛並みはみるみる内に静電気でも帯びたように逆立った。

「だっ……だめですのご主人さま!
 スープはあついですの、ご主人さまヤケドするですの!!」

リアルに想像したらしい。
ぶぶぶぶぶ、とミュウが必死になって首を振れば、振り回された大きな耳にべしべしと後頭部を叩かれる。
同じようにやはりべしべしと、ガイの右肩もまたもう一方の耳に叩かれているようだ。
いてて、と音に合わせてガイの声が聞こえた。

聞こえる声があり、視野を占める青い毛並みがあり、後頭部に連続する衝撃を認識している感覚がある。
しかし意識は数秒前で止まっていた。
まるくした目はまるくなったまま、首を振り過ぎてふらりろとよろめいたミュウの頭を映し込み、しばしして緩慢にぱち、と瞬く。

意識をとらえていたのは、一言だった。

「……『レプリカスープ』じゃなくてか?」

「みゅ?」

「ははーあ、なるほどな」

半ば無意識の問いかけはミュウに対するそれだったが、声は二方向から返ってきた。
訳知り顔が見えるかの声音に、ルークはぎくりとして源を見上げる。
見上げた先では声の主が、足場が上向いた拍子にずり落ちかけたチーグルを、片手で押さえて助けていた。

「ミュウが正しい。
 ルークでスープ作んなら、そりゃ『ルークスープ』だよなあ?」

「ですの!
 ……じゃないですの、スープはあついんですの! だめなんですの!」

「そうそう。 ミュウも『チーグルスープ』じゃなくて『ミュウスープ』だ」

「ちがうですのちがうですの! あついですの、だめなんですのー!!」

身体を支えられながら、ミュウがみゅうみゅうと必死に訴えている。
ガイが笑いながら、楽しげな声音で純粋なチーグルには過ぎた軽口を謝っている。



このからだはレプリカだ。
けれどその名はレプリカではない。

このからだは被験者の模造品だ。
だから被験者アッシュの兄でも弟でもない。


けれどこのこころは紛れもなく、ガイが友と呼びミュウが主人と呼ぶ、『ルーク』だ。



そろそろと窺うように見上げれば、気付いたガイの視線が下りてくる。
く、と肩がわずか硬くなったのがわかった。
だが一瞬だ。

「卑屈病が再発なさいましたか?」

意地悪な言葉選びに、しかしその相貌は穏やかな微笑みをたたえて優しい。
目の前でふわりと綻びる頬と和められた眼差しは、ルークの目に重なる笑顔を想起させた。



赤くひらひら、白くひらひら。
追って呼びかければ、振り返って微笑う。

友達という言葉が、重なる笑顔の中にある。



「……ちぇ。」

口を尖らせ、半眼になって舌打ちする。
悔し紛れの悪態に、ガイは今度こそ意地悪く笑った。

「ミュウに一本とられたなあ、ルーク?」

「いーよ、なんかもー馬鹿らしっ。
 おまえらもう部屋戻れよ、味付けならケガしねーんだから見張りは要らねーだろ」

「みゅっ、ボクはご主人さまと一緒がいいですの!」

フン、と鼻を鳴らして顔を逸らし、ルークは肩に載せられていたガイの腕をぞんざいに払い落とすと調理台に向き直った。
剥きかけだったイモの皮を、自棄になって身ごと切って落とす。
見る影もなく小さくなったそれをずだんずだんと大雑把に刻んで、鍋の中にまとめて放り込んだ。
洗って土を落としただけで皮も剥いていないものが鍋の外にまだいくつも残っているが、既に七面倒くさくなっていたので、一個入れれば十分だろうと見なかった振りを決め込んだ。

他の具材と一緒になって踊り始めた小さなイモを眺め、しばししてちらりと、斜め後ろを肩越しに窺う。
見慣れた腕が見慣れた高さで、見慣れた腕組みの形を取っているのが見えた。

「…………………で。 何を入れりゃいーんだよ」

「どれ」

これ見よがしな大仰な動作をつけて特大のため息をついてやるも、ガイにこたえた風はない。
愛想もこそもない低音で問いかけても、彼は平然と傍へ寄ってきて鍋を覗き込んだ。
あてつけもここまで手応えがないと、腹が立つのを通り越して軽く虚しくなってくる。

「そうだな、基本はコレとコレ。 それからこの葉っぱ。
 あと……」

(―――あ)

粉末の入った小瓶をふたつと、乾いた何かの葉が数枚入った瓶をひとつ。
調理台の上に据えられた調味料の載った小さな棚から、ガイの手が選び出していく。
その手が再びいくつもの瓶の上でさ迷い始めたのを認め、ルークはそれを注視した。
雑念に散っていた意識が細く絞られていく。

意識のすべては一点に。
それは鍋の帯びた熱を感じる肌でも、小瓶を選ぶ長い指を見つめる瞳でもなく、


「そうそう、多分これだ。
 俺はこいつも足したほうが好きだな」

意識のすべては、ガイの唇が紡ぐ言葉を拾う、耳に。


「……それ入れたら、なんか違う…のか?」

視線は調理台の上に置いたまま、試すような気持ちで問いかけた。
まだ世界の広さを知らなかった頃、あまいお菓子やきれいな色の石を拳の中に隠して当てっこをした時のような、期待に胸が逸る感覚。
懐かしいそれが今でもこうして得られることを知ったのは、むきになって調理場に立つようになってから、何度目の時だっただろうか。

「んー、味付けってより香り付けなんだよな。
 ああ、代わりにこっちの葉っぱ使っても悪くないと思うぜ」

「どっちの方がいい?」

「そりゃお前の好みで―――」

「ガイは?」

連ねられていく言葉の中に探るのは、知識ではなく好機。
それを見出し、阻む言葉は遮って、ルークは問いを重ねた。
隣に立つ青年を見上げ、その視線を翠瞳で以って捕らえる。
何気なく見下ろしてきただけの瞳が、どこへも逸らせなくなるように。


「ガイはどっち?」

重ねた問いに、期待を強く念じて込める。
さあ、と。
急かす言葉は賭け事めいた思いで、青年を見据える眼差しに託した。


そうして、ふ、と。
ほんの一瞬、半ば睨めるように捉えていた先の瞳がわずかだが細められたように見えて、ルークが眉をひそめかけた時だ。
笑んだかに見えた瞳は呆気無くもついと逸らされ、捕らえていた筈の視線は調理台の上の小瓶に奪われてしまう。

「どっちかっつったら、俺は『こっちかな』。」

挙句の果てには賭けにも負けた。
望んだ言葉は紡がれることなく、好機に見放されたルークは肩を落とす。
悟られることの無いよう舌打ちは内心に留め、示された調味料や香辛料を投げやりな手つきで鍋の中に加えていった。
横から出される匙加減の指示にはその都度黙々と従ったが、上の空の頭には指示は知識として残らない。
もう一度同じ品を作ることになっても、確実に味は別物となるだろう。

匙でぐるぐると鍋の中身をかき混ぜ、ガイの用意した小皿に少量取って「ん」と目もくれずに隣へ差し出す。
手の上から小皿の重みが失せたのを意識の隅で認めながら、問題は質問の仕方なのかそれとも単純にタイミングなのかと、落胆の深さゆえの力無さで思考を巡らせていた時だ。


「ん、いーじゃん。
 やっぱこんくらいの塩加減の方が、俺は『好き』だな」

(―――お!)


期待と共に萎んで閉じかけていた聴覚に、それは時間差で飛び込んできた。
瞬く間に意識を冴え渡らせる、たったの二音でも特別な響きだ。
耳に残った音を逃さないように反芻し、耳腔の奥の鼓膜の奥、頭の中枢に焼きつける。
声の質も音の響きも、抑揚のひとつさえ余さずに。

頭の中で繰り返す内、頬がじわじわと緩み始める。
誤魔化すようにぐるぐるぐるぐる、先程の倍速で鍋を混ぜた。

「こんくらいね、ふーん、へーえ。 そーかそーか。」

口の端の緩みを見抜かれないように努めて返事を返す。
気分の晴れていく感覚は中々抗えるものではなく、口調が多少不自然な鸚鵡返しになるのも仕方がない。

ガイがいてこその『気分転換』であることをすっかり失念していたが、やはりいつ聞いても気分がよかった。
気軽に乞える言葉ではないから、こういった機会は実に貴重だ。
多少面倒な手順を踏んでも、逃してしまえるものではない。

不思議なのは、他の誰の言葉でも同じ気分にはならないことだ。
面映いような、こそばゆいような、じたばたと足踏みしたくなるような。
『友達』限定の感情なのかと長いこと思っていたのだが、クレスやロイドの言葉であっても何かが足りないだろうことが漠然とわかる。

味付けひとつでまったく別のスープが出来上がるように、友達にも種類があるのだろうか。
ふむといつしか黙考していると、不意にくつと微かな笑声を耳が拾う。
何かと思って見上げれば、ガイが明後日の方向を向いて、こらえているつもりなのか肩を震わせていた。

「なんだよ、思い出し笑い? うっわガイ、やーらしー」

「みゅ、ガイさんはやーらしーですの?」

「あ、いやほら、もう混ぜなくてもいーぞそれ。
 しかしあれだ、はじめの頃に比べたらずいぶん上達したよな、おまえ」

ミュウの自覚無しの助力が極めつけとなったか、ガイらしくもなく随分と雑な取り繕い方だ。
態度にこそ出さないものの笑顔も若干自然さに欠けていて、ルークはくつくつと肩を竦めて喉の奥で笑う。

「上達ね、ふっふ。
 ま、なんてーの? なに作るにしても、楽しみがあると違うっつーか?」

「…へえ、楽しみって?」

「教えてやんねっ!」

問いかけは、声を弾ませてばっさりと切り捨てる。
食い下がられてしまわないよう、早々に次の手順に移ることにした。
ガイが調理台の上に戻した小皿を手に取り、匙で鍋の中身を少量――取ろうとして、右手の親指が包帯の分だけ太くなっていることを忘れていたために手元が狂う。

「っと」

皿から溢れかけたので慌てて口をつけて、いくらか冷めている上辺のみをすすって量を減らす。
味見専用の取り皿なのか、口をつける箇所だけ皿の縁が薄くなっていて、危うくそこから零れた熱湯同然のスープが右手を強襲する所だった。
利き手でないとはいえ、切り傷の上から更にヤケドを負ってしまってはさすがに笑えない。

ふうと一息ついてから、危なっかしい所作にも珍しく無反応だったガイを一瞥する。
すると彼は何故か満面でにこにこと、ほんの数秒前のこちらのミスなど目に入っていなかったかのように笑っていた。

『楽しみって?』

一蹴したばかりの問いが、その楽しげな表情に手繰られるようにしてふとよぎる。
嫌な顔ひとつせずに手を貸してくれるのは彼の為人ゆえでもあるのだろうが、それにしても大好きな音機関に触れていられる貴重な時間を割いていても、そういえばいつだって楽しそうなのだ。
そこに理由があるとしたら、どういった理由なのだろう。

「つうかさあ、ガイこそよく毎回飽きもせず付き合うよな。
 俺が料理してんのひたすらじーっと見てるだけで、退屈じゃねーの?」

「うん? ……ああ。
 まああのスリリングなナイフの扱いを見てれば嫌でも退屈はしないかと」

「あ゛ーそーでしたねー、ガイはヘタクソが流血沙汰起こさないよーに見張ってらっしゃるんでしたねーぇ」

聞くんじゃなかった。
奇妙な間があったかと思えば、返ってきたのはにこやかな皮肉だ。
人が真剣に(少々の私欲込みとはいえ)挑んでいる料理に、彼は味ではなくスリルを求めていると。
失礼も甚だしい。

けっ、と毒々しく吐き捨てて、ルークはやさぐれた心境で小皿に口をつけた。
雑念は努めてまるめて心のくずかごにポイ捨てをかます。
ガイが味見をして確かめた味を、自分の舌でしっかりと覚える。
これもまた重要な一品ルールの過程のひとつだ。



「―――それに俺にも、楽しみはあるしな」



すると独りごちるような、思わせ振りな声音が降ってくる。
小皿の中身を一口に飲み干す傍らで、ルークは源へ視線を寄せた。
ガイは背を向けた調理台に両の肘を預けてもたれかかり、その顔はこちらを向いている。
しかし視線は交差しない。
昼間の湖の色をした瞳は、気後れを感じるほどにしかとこちらの顔を映し込んでいるのに、目が合ったという印象がない。

小皿。
否、口元―――唇だろうか。
ガイの視線は、そこにある。

「た、……楽しみ、って?」

「教えてやんない。」

「んだよ、感じ悪りっ」

恐る恐るに問いかければ、人好きのする笑顔の割り、返答はにべもなかった。
けれど『目が合った』ことは感じられたので、口を尖らせつつも内心安堵する。
ふてくされたように毒づくと、ガイは目を細めて笑みを深めた。

「おあいこだろ?
 ―――直接触れるだけがやり方じゃない、ってとこかな」

「?」

謎かけめいた言葉に、ルークは再び小皿に(今度こそ確かに少量を)取ったスープを細く息をかけて冷ましながら目を眇めた。
謎かけというよりはヒントのようといった方が印象に近い。
思わせ振りな言葉で真意を包んで隠すくせ、どこかでこちらが何かを察するのを促しているような節がある。

しかし促された所でさっぱりだ。
自分のことは棚上げかと言われればその通りだが、面白がるようなガイの態度が気に入らなかったこともあり、ルークは早々と追及を投げた。

のぼる湯気の和らいだことを確かめて、小皿を持ち上げる。
頭上へと。

「ほれミュウ、おまえも味見」

「みゅっ、おいしいですの!」

「……あっ。」





ミュウがこくりと喉を鳴らした途端、ガイの笑顔が急速にしおれた。

どこまでもさっぱりだ。



























▽ ▽ ▽

赤く白く、ひらひらと。
一面の青い空の下、豊かな緑の景色の中で、昨日と同じにたなびく二色がある。
頭に焼きついた残像でも、瞼の裏に描いた光景でもない。
眩しいくらいの存在感を伴い、クレスとロイドがそこにいる。

『あの人間もどき共をなんとかしておくれよ!』

『劣化レプリカ風情が』

『その出来損ないから離れなさい』

踏み出そうとする足に、絡みつく残響がある。
存在に抉るようにして刻まれた傷は、未だ剥がせば血を流すかさぶただ。
踏み出せば、あるいはそれを無理矢理に剥がし取る行為となるのかもしれない。



けれど踏み出さなければきっと、胸を張って『友達』と言えないままだ。



「わかってはいても名残惜しいものだね……」

「おいおいクレス、そーゆーことゆーなよ。 俺らだって我慢してたっつーのに。
 なあ?」

「―――え? あ、お、おう。」

白いひらひらが翻り、ロイドがこちらを振り返る。
それを認識してようやく同意を求められたことに気付き、ルークは慌てて頷いた。
すると物怖じしない二対の瞳にじっと見つめられる数瞬ののち、赤いひらひらを揺らしてクレスが、困ったような顔で笑う。

「ルークは隠し事が苦手、かな?」

「えっ」

核心を衝く一言に息を呑んだ。
身体が強張って指先まで硬くなる一瞬は、恐れて描いていた光景が頭を巡ったが故だ。
冷たく凍る眼差しと、微笑んでくれたのと同じ唇が吐き捨てる侮蔑に、心臓から全身が冷えていく。
寒心に熱がさらわれていく。

だが、クレスの笑顔が目の前で凍りつくことはなかった。
正確には、凍ったとしても見えなかった。
視界を全面埋めるほどの近きに、ロイドが顔を出したからだ。

「ルーク、おまえなあ。
 んな暗い顔してたら帰りづらいだろ〜。
 なんだよもー、頑張って寂しいの我慢してんのって俺だけぇ?」

げんなりと、それは笑顔ではなかったけれど、異質のものを見る目でもない。
呆れ返り疲れ果てたように彼が非難している対象を察し、ルークは咄嗟に口やら目やらを代わる代わる覆った。
表情の繕い方と弁解の言葉に迷ってあわあわと無意味な手振りを重ねていると、ロイドの向こうから覗き込んできたクレスが、堪え損ねたように破顔してくすくすと笑声を立てる。

「はは、ごめんごめんロイド。
 そうだね。 せっかく友達になれたんだから、暗い顔でお別れはしたくないよね」

「だろ?
 苺きしめんだからこそ、笑ってさよならしたいよなっ」

「……もしかして一期一会って言いてぇの?」

「ん? あ、それだ。
 へーえ、頭いーんだなルーク!」

おずおずと指摘すれば、いたく感心した様子のロイドに褒められた。
その傍らではクレスが、些か困惑交じりの苦笑いを浮かべている。
ロイドのいかにも意外そうな言い様は傍目には失礼に映っただろうし、クレスとて笑っていないでフォローのひとつでも入れる所だろうとも思った。


けれど、当たり前のようなそんな態度で、『友達』と言ってくれる。
それだけで。


「―――ははっ」

「あ、やっと笑ってくれたね」

「えっなんでそこで笑うんだ? 今俺なんかおかしかったか?」

知らず頬が緩み、笑声が零れた。
応えて微笑んだクレスと狼狽えたロイドを視界に収めてから、ルークはきょろと首を巡らせて見つけた人物に視線を寄せる。

少し離れた所の木の下で睨み合う、弓を負った青い髪の青年とアッシュ。
その傍で彼らの諍いを揶揄しているらしい、軟派な軽い印象の赤髪の青年と、もうひとり―――ガイ。


『俺にとっての本物はおまえだけってことさ』

いつか貰った言葉を確かめ、熱の灯った胸に拳を置く。


「あーあ、チェスターがまた……」

「やれやれ。
 あそこの口悪りぃ弟にもよろしくな、ルーク」

閉口した様子でクレスが呻き、同情を含んだ調子でロイドが苦笑する。
足が竦み、唇が開口を拒み、全身が怯えて萎縮する。
彼らに笑顔を向けてもらう資格もない臆病者だと、自覚は胸を刺す棘のようだ。

それでも。
竦む足を、拒む唇を、萎縮する身体を。
振り切って進むためにはこれ以上ないくらい、強い願いが胸にある。

「―――クレス、ロイド」













「ふたりに、聞いてほしいことがあるんだ」

失くしたくないと願う以上に、ほんとうの『友達』になりたいから。























fin.



07.12.13
.



月色花音のAKILAさんより頂きました。
「ミュウ」「料理がちょっと上達したルーク」「inファンダム」のリクエストを叶えて下さいましたv
くすぐったくもじれったい様なガイ→←ルク+ミュウに萌え、そしてクレスやロイドの暖かさに和み…!
AKILAさん、本当に有難うございました!